2009年08月09日

原爆被爆体験談

原爆被害者の会○○支部 小島三郎氏の体験談

1945年8月6日8時10分、東方遥拝。部隊長の訓示と毎日の朝の行事がまもなく終わろうとする頃、突然、東の空に目も眩むような閃光が光り、続いて物凄い音と爆風であった。退避の命令が出、全員防空壕に退避した。
広島市の郊外西約10Kmに宇品から疎開した船舶経理部倉庫の模様である。部隊は主計中佐を部隊長とする経理下士官、軍属約100名で軍需品補給部隊であった。
私は軍属5人(女子)と共に俸給、旅費、軍需品代金の支払い担当の主計伍長。上司は清木主計准尉であった。
部隊の獣医少尉が広島市内に歯の治療中行方不明のため、その捜査と私の所属する軍属家族の安否確認の命を受けたたが、当日は全市火災で入ることが出来ず、翌日ひとりで10kmを歩き、市内は道の真ん中でも顔がほてりやっとのことで通行できるほどであった。
その状況の中で瓦礫の下から死体や半死半生になった人が「へいたいさん、水をください」としきりに叫んでいたが、火傷には水はやってはならぬとの命令があり、残酷なことをしたと今も悔やまれてならぬ。
もっと親切にしてやれたのに、どうせあれだけの火傷、間もなく死ぬのだろうが、思い切り水を飲ませてやればよかったと悔やまれる。
電車道には通勤者だろう、並んだまま死体が転がっている。馬も荷馬車に繋がれたまま倒れている。道端の防水池には人がつかったまま死んでいる。
県庁付近には学徒動員の中学生だろうか、弁当アルミが散らばり無残である。中でも憐れな思いがしたのは40位の人が自分のコシマキをほどき、真っ赤に焼けただれた我が子を背中に負う姿はいたましかった。
戦争に刈りだされた軍人ならぬ人々までも、こんなむごいことがあってよいのだろうか。幼い頃、弘法大師のスライドを良く見たものだが、悪いことをしたものは、こんな地獄にやられて舌を鬼から抜かれると教えられたが、ここが地獄かとおもえた。
広島と長崎で、たった2発の爆弾で17万人の人が殺され、原爆手帳を貰って戦後42年(この手記は約20年前に書かれたもの)我が子に原爆の後遺症が残るのではないか、毛が抜けるがそのせいではないかとか、いろいろ悩み続けて被爆者が37万人もいる。原爆は2度とさせてはならぬ。
私たちも被爆40余年、もう、そんなに生きることはないが、原爆の生き証人として、われらの子孫に核兵器の絶滅まで語り継がなければなるまい。
posted by masamaru at 23:06| Comment(1) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
今でも後遺症に苦しんでおられ方が多いのですが
忘れられていますよね。
64年も病魔との戦い。
こころ傷みます。 
人には言えない悩みも多い広島の人たち。
国の心温かい援助を願うばかりです。
Posted by 道子 at 2009年08月12日 14:56
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